クラクフ【アウシュビッツ強制収容所】
5月11日
本日の予定
- アウシュビッツ強制収容所
ついにこの日がやってきた。
僕は映画「シンドラーのリスト」やヴィクトール・フランクルの「夜と霧」などの作品に感動し、いつかアウシュビッツ強制収容所に行ってみたいと思っていた。
本当に来れるとは思っていなかっただけに、感動もひとしおだ。
アウシュビッツ強制収容所とは、ナチスドイツが行った人種抑圧政策により史上最大規模のホロコースト(大虐殺)が実施された収容所である。
最初はポーランドの政治犯を対象としていたが、後にユダヤ人、ロマ(ジプシー)などが加わり、最終的にはヨーロッパ中から130万人が連れて来られた。
その内の90%がユダヤ人と言われている。
アウシュビッツ強制収容所まではクラクフ中央駅からバスが走っていて、僕はそれに乗って収容所に向かった。
奥に進むにつれてどんどん民家が少なくなっていく。
人影のない牧場と畑ばかりが延々と続く平野を眺めていると、このエリアに強制収容所を設置した意味がわかるような気がした。
約1時間半ほどして強制収容所に到着。
年間200万人以上来場しているとのことで、この日も大勢の人が訪れていた。
アウシュビッツ強制収容所は3つの収容所の総称で、ここでは第1収容所と第2収容所(ビルケナウ)が見学できる。
まずは第1収容所から見学する。
これが有名な「ARBEIT MACHT FREI (働けば自由になる)」と書かれた門だ。
当時この門を再びくぐって出られた人は10人に1人もいなかったといわれている。
写真では見えにくいが"B"の文字がひっくり返っていて、これは溶接にたずさわった被収容者の反抗の意思表示といわれている。
この有刺鉄線は高圧電流が流れていて、これにわざと触れて命を絶つ人もいたという。
被収容者棟は28棟あり、一部改修しているが、ほぼ当時のままの姿だという。
現在これらは展示室になっていて被収容者のカバン、靴、メガネなどが山積みになって展示されていた。
うず高く積まれた髪の毛のブースは撮影禁止だったが、この部屋だけは特に異様な雰囲気が漂っていた。
髪の毛で作られた毛布は衝撃的だった。
これは「チクロンB」と呼ばれる毒ガス(正確には殺虫剤)の空き缶だ。
これ1缶で150人を殺すことができたという。
生存者の一人であるシュロモ・ヴェネツィアの本によると、ガス室の死体処理作業は被収容者が行っていたらしい。
ガス処理後の室内は文字通り死体の山が築かれていて、
女性や老人、子供など力の弱い者は下層、男性は中層、若くて体力のある男性は上層といったように、新鮮な空気を求めて上へ上へと進んだ結果、人間ピラミッドができあがっていたという。
そして死体をこの焼却炉で燃やしていた。
なんとも言えない異様な雰囲気が漂っていた。
1日300体以上焼却していたという。
外は晴れているのにここだけ薄暗くジメジメしていて、あまり長居したくない雰囲気だった。
見せしめのための集団絞首台だ。
一度に10名以上が処刑されていた。
次に向かったのは「死の壁」といわれる処刑場だ。
主に抵抗組織のメンバーがここで射殺された。
処刑現場を見せないように、木の板で目隠しされていた。
次にビルケナウ(第2収容所)に向かう。
ビルケナウまでは約3km離れているので、バスで向かった。
被収容者はヨーロッパ各地からこの列車に乗ってやってきた。
窓もなく、トイレもない極めて不衛生な状態で運ばれてきたため、到着するまでにすでに亡くなっている人たちも多かった。
到着後、医師による選別が行われ「労働者」、「人体実験の検体」、「価値なし」のグループに振り分けられた。
そして75%の人たちが「価値なし」のグループに選別され、シャワー室と称した「ガス室」に連れて行かれた。
ビルケナウのガス室は証拠隠滅のためにドイツ軍によって徹底的に破壊されていた。
この辺りはもともと軍馬の調教場だったため広大な平野が広がり、当時は300棟ものバラックが建ち並んでいたが、現在残っているのは67棟だ。
このバラックは馬小屋を改装したもので基礎工事はされておらず、床も土のままだった。
この辺りの夏場は37℃、冬場はマイナス20℃にもなるため非常に過酷な環境だったことは想像に難くない
この狭い仕切りの中に2、3人で寝かされていたため、感染症等はすぐに蔓延した。
そのため過酷な労働と相まって被収容者は平均2〜3ヶ月しか生きられなかったという。
選別によって選ばれた「労働者」は死体処理や収容所の維持管理・拡張工事などを行い、体力がなくなれば彼らも死体として処理された。
これはまるでシステマティックに「死」を生産する工場のようだ。
この日は天気が良くて大勢の人がいるにも関わらず静寂な雰囲気に包まれ、唯一鳥のさえずりだけが「悲劇が起こる前の記憶」をとどめていた。
「過去」に焦点を当てた映画や本だけでは、おそらくアウシュビッツは僕の中で悲劇の場所で終わっていただろう。
このようにのどかな「今」のアウシュビッツを知らずに終わっていたに違いない。
歴史を「過去」のものとして対象化・結晶化するのではなく、「今」の中にすべて包摂されたものとして捉えると「過去」が錠剤のように溶け出し、自然な形で新たな歴史認識が生まれるように思う。
人間がどんな悲劇や喜劇を繰り返してきても、そのかたわらで鳥はいつも変わらずさえずり続いてきたのだ。
「国破れて山河あり」という言葉の意味を改めて深く噛みしめた。