プラハ【一休、二休がなくて、サンキュー】前編
5月12日
本日の予定
- 天文時計
- カレル橋
クラクフ中央駅からプラハ本駅まで夜行列車で向う。
本当は個室にしたかったのだが、予約が取れず2人部屋を予約した。
列車が到着し、部屋に入ると誰もいなかった。
「おっしゃ、これ事実上個室ちゃうか。うししししししししししし…。」
と思っていると、扉が開いて一人の青年が入ってきた。
ミハイルというイタリアのトリノ出身の青年で、これからプラハに住んでいる彼女に会いに行くのだと言う。
国境を越えた遠距離恋愛とはなんてロマンチックだろう。
彼はIT系の仕事をしていて、以前はサンフランシスコに住んでいたという。
旅行が好きで世界各国を旅し、ヨーロッパはポルトガル以外すべて回ったと語っていた。
日本の漫画にも詳しく、子どもの頃テレビで「北斗の拳」や「キャプテン翼」、「釣りキチ三平」などをよく観ていたという。
釣りキチ三平って何や…。
二人の話は尽きることなく、列車はプラハに向けて星空の下を走り抜けていった。
翌朝明るくなった窓の外に目をやると、看板の文字がチェコ語に変わっていた。
いつの間にか国境を越えていたようだ。
彼はすでに起きていてスーツに着替えていた。
彼女が住んでいるプラハに移り住むために、今日会社の面接を受けるのだという。
「がんばるんやで!」
「やりまっせ!」
と励まし合いながら、プラハ本駅に到着した。
「よし坊のホテルはどこ?まだ時間あるから道案内するで。」
と言ってくれたので、一緒に行くことにした。
道すがらチーズの美味しいお店やおすすめのお土産屋さんなどを紹介してくれた。
ホテルに到着し、別れの時が訪れた。
「彼女と幸せになりや!」
「ありがとう!よし坊も良い旅を!」
「人生は旅」というのなら、この二人が交わした言葉は同じことを言っている。
お互いの「人生=旅」を祝福する言葉だ。
日本でのありふれた日常も「旅」と思うなら、新鮮な気持ちで毎日の生活を送れるような気がする。
見慣れた景色も心の持ち方次第でいつでも「旅人」になれるのだ。
旧市街広場に朝日が昇る。
雨上がりのため、しずくが朝日に反射して街全体が輝いていた。
これは15世紀に作られた天文時計だ。
朝9時から夜9時まで一時間ごとに演奏とともに人形が動くのだが、まだ早朝なので
この時は静かに時間を刻んでいた。
ホテルに荷物を預けてカレル橋に向かった。
この旧市街橋塔をくぐったらいよいよカレル橋だ。
早朝なので大道芸人などはいないが、昼になるととても賑やかな雰囲気になる。
広すぎて一休さんでなくても真ん中を歩かざるを得ない。
橋からの景色も格別だ。
こんなところで毎朝散歩したら最高だろうなあ…。
カレル橋は若干27歳の設計士ペトル・パルレーシェが手がけ、1402年に完成して以来プラハの歴史を支えてきた。
かつてプラハは神聖ローマ帝国の首都として栄えていた。
しかし14世紀半ばを境に次第に凋落をはじめ、16世紀からオーストリアのハプスブルク家の支配下におさめられた。
第一次世界大戦後オーストリアの敗戦とともに一時国家主権を取り戻したのも束の間、今度はナチスドイツの占領下に置かれた。
そして第二次世界大戦後ナチスドイツの敗退のあとソヴィエト連邦の支配下におさめられた。
まさに一難去ってまた一難である。
もしこれがシミュレーションゲームだったら僕は確実にリセットボタンを押している。
しかし1968年から「プラハの春」といわれる「スターリン型」政治体制の脱却を進める運動が開始され、1989年の「ビロード革命」によってついに共産党政権が崩壊した。
この瞬間、自由を求める民衆の手によって重厚な「鉄のカーテン」が開かれ、ようやくプラハに「春」が訪れたのである。
この有名な聖ヤン・ネポムツキーも激動のプラハを見守り続けていた。
この像の台座には2つのレリーフがあり、それに触れると幸福になると言われている。
僕も指紋がなくなるぐらい触ってきた。
カレル橋には30体の聖人像が並んでいて、美術館の回廊のように美しい橋だった。
一休さんもプラハに生まれていれば橋だけで100話ぐらい逸話が生まれていたに違いない。
激動の時代に翻弄されながらもこの美しい街並みがきれいに残っていたのは、敵をも魅了する美しさがあればこそと言えるのかも知れない。
これからプラハの街を散策するのが楽しみだ。